アーノンクール イン 京都(第21回京都賞記念ワークショップ)再掲載

アーノンクールが無くなりましたね。私は結局京都賞のワークショップが唯一の生演奏体験となりました。でもこれは本当に面白かったです。再掲しておきます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
アーノンクール イン 京都(第21回京都賞記念ワークショップ)

 ニコラウス・アーノンクールが第21回京都賞を受賞しまして,「アーノンクール イン 京都」というワークショップが京都国際会館で行われました(11月12日土曜日13:00-17:00)。行ってきましたがな京都まで。面白かったですよ。ということで内容を少しメモしておきます。私はアーノンクールの著書も読んでいないし,ピリオド奏法については全然うといので間違ってたらごめんなさい。たぶんなんか間違ってると思いますが。

 前半は講演とシンポジウム。まずアーノンクールが話をして,それに対してパネリスト(鈴木雅明,樋口隆一,荒川恒子)がコメントと質問をするというものでした。アーノンクールの講演は『楽譜の魔力 The Charm of Musical Notation』というタイトルだったんですが,バッハやモーツァルトの楽譜の表記を実際にどのように演奏すべきかというかなり具体的な話が多かったです。

 強調していたのは「楽譜をそのまま演奏したのではいけない」ということでした。例えば,バッハで通奏低音全音符が書いてあったとしても,それを小節いっぱいだらーと伸ばしてはダメ,低弦もアタックのあとすぐに減衰すること。そして,受難曲などのレシタティーフについても楽譜通りの音価ではなく,その言葉の発音に即したリズムで歌わねばならないということ。それから,モーツァルトでは,スタカートの点があっても,それは「ここはスラーではない」という意味にすぎないので,短く切って演奏すべきではない,ということ。これらを,当時の理論書や教本を根拠に,実例に即して話してくれました。低音の奏法については,樋口さんが「違う考え方もある」と言ったところ「誰が言っているのか。それは正しくない。」とかなり強く否定してたのが印象的でした。

 その後,パネリストの3氏と会場からの質問(事前に書いたものを司会の伊東信宏氏が紹介)に対する答えだったんですが,鈴木雅明さんの「最近アーノンクールさんは19世紀や20世紀の作品も演奏されているが,例えば減七の和音が当たり前に使われるロマン派以降の音楽を演奏したあと,バロック音楽を演奏するとき,そういう和音が非常に刺激的な不協和音として使われるバロックの和声感を取り戻すのに苦労しないか」という質問が面白かったです。アーノンクール氏の答えは「午前中にバッハ,午後にブラームスというようなことはできないけれど,何日か空けば切り替えられる」というものでした。会場からの「今後の予定は?」という質問に,司会の伊東氏が「ストラヴィンスキーバルトーク,ベルクなども振りたいとのことですが」と水を向けると「その通りです。レイクス・プログレス,ヴォツェック,ルルなどを」とのこと。これは楽しみですね。

 それから,これも伊東さんが紹介しておられたんですが,昨日(11日)に行われた講演の中にあった,指揮デビューの話というのが面白かったです。アーノンクールの指揮者としてのデビューはなんとミラノ・スカラ座だったのですが,これは,スカラ座の人が,生演奏を聴いたのではなく,「ニコラウス・アーノンクール指揮」と書いてあるレコードを見て招聘したのだそうですが,実際にはアーノンクールはチェロを弾いていたわけで,楽器を持たない「指揮者」としてのデビューはそのスカラ座での公演だったとのこと。

 30分の休憩をはさんで後半は京都フィルハーモニー合奏団を相手に公開演奏指導。曲はモーツァルト交響曲第33番で、第1、2楽章だけでしたがこれが面白かったです。なお、ドイツ語の通訳として樋口氏もステージに出ておられましたが、結局アーノンクールは終始英語を使っており、樋口さんは英語から日本語への通訳に。

 まずは第1楽章、これはスタカートの奏法(点のスタカートは「スラーではない」という意味、くさび形のスタカートは短く切る)についての注意があったぐらいでほぼ通して演奏。その後第2楽章へ。こちらはそれぞれの部分をかなり細かくやったのですが、「これはピエロとピエレット(ピエロの女性版)の物語なんだ」と、具体的なイメージをたくさん使って説明していたのが面白かったです。例えば冒頭、強弱のコントラストをかなり大きくつけるように指示していたのですが、これを「音の大きいところは堂々と誇らしげにしているんだけど、すぐに自信をなくして小さくなる」というように(実際にこう言ってはいなかったと思いますが、だいたいそういうようなことです。録音してたわけじゃないので…。)身振りをまじえてユーモラスに説明、第1vnの甘いメロディ(19小節からのハ短調の旋律)は「彼女はなんと美しいんだろう」それに対する他の弦の合いの手は「そうそう」という感じで、とか、「ここはカタストロフだから低弦は強く(18小節)」とか「ここははじめての幸せ(27小節からの変ロ長調)「ここはキス(31,32小節の第2vnとvl, 35,36,37小節のob)」とか、そんな調子。最後の部分は「ここは冒頭と同じ事をやっているけど、前と同じではなくて、古いアルバムを見ているような感じ、終わりのところはドアを閉めて去っていくようにできるだけソフトに、聴いてる人はどういう風に終わるかみんな知ってるんだから,聞こえないぐらいでもいい,とか。終わりのところは「ここはヨーデルだ(87,89,91小節のヴァイオリン)」とも言ってました。

 もちろんこういう比喩ばかりじゃなくて、音楽的な指示もありました。中間のカノンのところ(45小節〜)では、第1vnを追いかける第2vnに「これは伴奏じゃない。第1vnを邪魔するぐらいに弾いてくれ」とか、「ここの弦のタタタタタ…というのは(67小節〜)管楽器に対するヴィブラートのように」とか。でもやっぱりこういうイメージの説明は印象に残りますね。あと、ユーモアというのをかなり重視してました「ここは客が笑うぐらいに」とか「ここはユーモラスに、今みたいにアカデミックにやったら、ほら(と客席を向いて)、誰も笑ってないでしょう。」(51小節からの管楽器)とか。

 その後第1楽章に戻ってもう一度やったんですが、今度はこちらも比喩が多かったですね。冒頭の主題(この楽章の主題は2つではなく10〜13あるとも言ってました)は父親の強い調子の言葉で、同じ音型が繰り返されるところは「昨日も遅かった!おとといも遅かった!その前も遅かった!」みたいに、ちょっと安堵したようなところでは「お父さんやっと寝た」みたいに、とか。具体的な奏法についてでは「fpはフォルテからピアノに急激に減衰するのではなく、フォルテからディミヌエンドしてピアノになるんだ」とか「シンコペーションは必ずダウンボウで」というようなことを。

 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとかWPh相手にも全く同じようにやってるのかどうかはわかりませんが、アーノンクールがこういうリハーサルをやってるっていうのはちょっと意外でしたね。でも、結構好きです、こういう音楽の捉え方。

 あ、奏法のことでもう一つ思い出しましたが、前半のシンポジウムで、バッハのアーティキュレーションについて面白い話が出ていました。バッハの時代に作曲家がアーティキュレーションの指示を書き込むということはあまり多くなかったのですが、ロ短調ミサ(だったと思う)には、バッハ自身がアーティキュレーションを書き込んだパート譜が複数あるんだそうです。で、こういう場合どちらを採るべきか、という問題について、アーノンクール氏は「これは、バッハ自身そのアーティキュレーションを絶対的なものだと見なしていなかったという証拠だ。つまりどちらも正しいのだ。」と言ってました。モーツァルトのリハーサルでも「音符が均等に書かれているからといって均等に演奏してはいけない」というのを何度も言ってましたし、アーノンクールの音楽観を簡単に言うと「バロックや古典派の楽譜を、19世紀以降の楽譜に対するときのように、杓子定規に演奏してはいけない。なにより大事なのは音楽のメッセージ(Botschaft という言葉を使っていました)を受け取ることである。」ということのようです。これはある意味、19世紀生まれのローマンティシュな大指揮者たちの考え方に共通するところもあるように思えて面白かったです。

 なお、繰り返しますが、これはごく簡単なメモと記憶に基づいて書いたものなので、あちこち間違いもあると思います。引用などされる場合はくれぐれもご注意を。以前は京都賞のあとは講演やシンポジウムの記録が『音楽芸術』誌に載ってたんですが、あの雑誌が休刊になってからはどうなってるんでしょう?